尊号真像銘文(現代語)

尊号真像銘文 本

【1】大無量寿経言「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法(たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば、正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法を除く)」

 「大無量寿経言」というのは、阿弥陀仏の四十八の誓願をお説きになっている経典である。「設我得仏」というのは、わたしが仏になったときにはというお言葉である。「十方衆生」というのは、あらゆる世界の命あるものということである。「至心信楽」というのは、「至心」とは真実ということである。真実というのは阿弥陀仏の誓願が真実であるということで、これを「至心」というのである。煩悩を身にそなえたすべてのものには、もとより真実の心がなく、清らかな心もないのであり、それは濁りと悪に満ちた世の中でよこしまな考えにとらわれているからである。「信楽」というのは、阿弥陀仏の本願が真実であることを、ひとすじに深く信じて疑わないので、これを「信楽」というのである。この「至心信楽」とは、つまりすべての世界の命あるものに、わたしの真実の誓願を信楽せよとお勧めになる本願に誓われた「至心信楽」であり、凡夫の自力の心ではない。「欲生我国」というのは、他力の「至心信楽」の心によって安楽浄土に生れようと思えというのである。「乃至十念」というのは、阿弥陀仏が本願に誓われた名号を称えることをお勧めになるにあたり、念仏の数が定まっていないことをあらわし、また念仏する時を定めないことをすべてのものに知らせようとお思いになり、「乃至」の言葉を「十念」の名号、すなわち十回の念仏に添えてお誓いになったのである。阿弥陀仏からこの本願をいただいたからには、念仏は平生の時が大切であって臨終を待つことはない。ただ阿弥陀仏が誓われた「至心信楽」に深くおまかせしなければならないというのである。この真実の信心を得る時、光明の中に摂め取って決して捨てない阿弥陀仏のお心の内に入るので、正定聚の位に定まると示されている。「若不生者不取正覚」というのは、「若不生者」とは、もし生れないようならというお言葉であり、「不取正覚」とは、仏にならないと誓われたお言葉である。この意味は、他力の「至心信楽」すなわち真実の信心を得たものが、もしわたしの浄土に生れないようなら、わたしは仏にならないと誓われたお言葉なのである。この本願については唯信鈔に詳しく示されている。「唯信」というのは、すなわちこの真実の信心を疑いなくいただく心をいうのである。「唯除五逆誹謗正法」というのは、「唯除」というのは「ただ除く」という言葉であり、五逆の罪を犯す人を嫌い、仏法を謗る罪の重いことを知らせようとしているのである。この二つの罪の重いことを示して、すべての世界のあらゆるものがみなもれることなく往生できるということを知らせようとしているのである。

【2】又言 「其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転(その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る)」

 「其仏本願力」というのは、阿弥陀仏の本願のはたらきということである。「聞名欲往生」ということについて、「聞」というのは、阿弥陀仏の本願に誓われた名号を信じるということであり、「欲往生」というのは、安楽浄土に生れようと思えということである。「皆悉到彼国」というのは、本願に誓われた名号を信じて生れようと思う人は、みなもれることなく阿弥陀仏の浄土に至るというお言葉である。「自致不退転」ということについて、「自」は「おのずから」ということである。「おのずから」というのは、衆生のはからいによってそうなるのではなく、そのようにあらしめるはたらきによって不退転の位に至らせてくださるということであり、これは「自然」という言葉である。「致」というのは、「いたる」ということであり、「むねとする」すなわち根本とするということである。阿弥陀仏の本願の名号を信じる人は、自然に不退転の位に至らせてくださることを根本としなければならないと思うがよい、というのである。「不退」というのは、必ず仏になる身と定まる位のことである。これは、すなわち正定聚の位に至ることを根本としなければならないとお説きになった教えである。

【3】又言 「必得超絶去 往生安養国 横截五悪趣 悪趣自然閉 昇道無窮極 易往而無人 其国不逆違 自然之所牽(かならず超絶して去つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢん。道に昇るに窮極なし。往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり)」

 「必得超絶去往生安養国」というのは、「必」は「かならず」ということである。「かならず」というのは、定まっているという意味であり、また自然という意味である。「得」は「えている」ということである。「超」は「こえて」ということである。「絶」は、断ち切って離れるということである。「去」は「すてる」ということであり、「いく」ということであり、「さる」ということである。娑婆世界を断ち切って、生れ変り死に変りし続けてきた迷いの世界を超え離れて行き去るということである。安養浄土に間違いなく往生するというのである。「安養」というのは、阿弥陀仏をほめたたえるお言葉として示されている。すなわち安楽浄土のことである。「横截五悪趣悪趣自然閉」というのは、「横」は「よこざま」ということである。「よこざま」というのは、阿弥陀仏の本願のはたらきを信じることによって、行者のはからいによらずに、迷いの世界を自然に断ち切って、その世界に生を受けることを離れるのであり、このことを「横」といい、また他力というのである。これを「横超」というのである。「横」とは「竪」に対する言葉であり、「超」とは「迂」に対する言葉である。「竪」は「たてざま」ということであり、「迂」は「めぐる」ということである。「竪」と「迂」とは自力聖道門をあらわし、「横超」とはすなわち他力真宗の根本をあらわしている。「截」というのは「きる」ということであり、迷いの世界のきずなをよこざまに断ち切るのである。「悪趣自然閉」というのは、本願のはたらきを信じおまかせすれば必ず迷いの世界への道が閉じるので「自然閉」というのである。「閉」とは「とじる」ということである。本願のはたらきが因となって自然に往生するのである。「昇道無窮極」というのは、「昇」は「のぼる」ということである。「のぼる」というのは、この上ない涅槃のさとりに至ることであり、これを「昇」というのである。「道」は大いなる涅槃のさとりのことである。「無窮極」というのは、きわまりがないということである。「易往而無人」というのは、「易往」とは、往きやすいということである。本願のはたらきにおまかせすれば真実の浄土に往生することが間違いないので、往きやすいのである。「無人」というのは、人がいないということである。人がいないというのは、真実の信心を得る人は滅多にいないので、真実の浄土に往生する人がまれであるというのである。それで源信和尚は往生要集に、「報土に生れる人は多くなく、化土に生れる人は少なくない」といわれている。「其国不逆違自然之所牽」というのは、「其国」とは「そのくに」ということであり、安養浄土のことである。「不逆違」とは、理にかなっているということであり、間違いないということである。「逆」は「さかさま」ということであり、「違」は「たがう」ということである。真実の信心を得た人は、大いなる本願のはたらきによるので、自然に浄土往生の因が間違いないものとなり、そのはたらきに牽かれるから往きやすく、この上ない大いなる涅槃のさとりに至ることにきわまりがない、といわれているのである。そのようなわけで「自然之所牽」というのである。本願他力の「至心信楽」の因が自然にはたらくのであり、これを「牽」というのである。「自然」というのは、行者のはからいによるのではないということである。

【4】大勢至菩薩御銘文

 首楞厳経言 「勢至獲念仏円通 大勢至法王子 与其同倫 五十二菩薩 即従座起 頂礼仏足 而白仏言 我憶往昔 恒河沙劫 有仏出世 名無量光 十二如来 相継一劫 其最後仏 名超日月光 彼仏教我 念仏三昧若衆生心 憶仏 念仏 現前当来 必定見仏 去仏不遠 不仮方便 自得心開 如染香人 身有香気 此則名曰 香光荘厳 我本因地 以念仏心 入無生忍 今於此界 摂念仏人 帰於浄土(勢至念仏円通を獲たり。大勢至法王子、その同倫の五十二菩薩と、すなはち座より起ち、仏足を頂礼して仏にまうしてまうさく、われ往昔の恒河沙劫を憶ふに、仏ありて世に出でます。無量光と名づく。十二の如来、一劫にあひ継ぎ、その最後の仏を超日月光と名づく。かの仏、われに念仏三昧を教へたまふ。乃至もし衆生、心に仏を憶ひ仏を念ずれば、現前・当来にかならずさだめて仏を見たてまつらん。仏を去ること遠からず、方便を仮らず、おのづから心開かるることを得ん。染香人の身に香気あるがごとし。これすなはち名づけて香光荘厳といふ。われもと因地にして、念仏の心をもつて無生忍に入る。いまこの界において、念仏の人を摂して浄土に帰せしむ)」

 「勢至獲念仏円通」というのは、勢至菩薩が念仏を得られたということである。「獲」というのは、「える」という言葉である。「える」というのは、因位のときに無生法忍のさとりを得ることをいう。念仏によって勢至菩薩が無生法忍のさとりを得たというのである。「大勢至法王子与其同倫」というのは、五十二人の菩薩がたと勢至菩薩とが同じ仲間であるというのであり、法王子である勢至菩薩と菩薩がたが同じ仲間であるということを、「与其同倫」というのである。「即従座起頂礼仏足而白仏言」というのは、ただちに座から立って仏の足をおしいただいて礼拝し、仏に申し上げたということである。「我憶往昔」というのは、わたしが恒河沙劫という長い年月の過去を思いおこしてみるという意味である。「有仏出世名無量光」というのは、仏が世にお出ましになったという言葉である。世にお出ましになった仏は阿弥陀仏であるというのである。十二光仏が十二度にわたり世にお出ましになったことを「十二如来相継一劫」というのである。「十二如来」というのは、阿弥陀仏を十二の光であらわしたお名前である。「相継一劫」というのは、十二の光であらわされる仏が十二度にわたりあいついで世にお出ましになったことを「相継ぐ」というのである。「其最後仏名超日月光」というのは、十二光仏のうち最後に世にお出ましになった仏を「超日月光仏」と申しあげるということである。「彼仏教我念仏三昧」というのは、その最後の超日月光仏が念仏三昧を勢至菩薩にお教えになったということである。「若衆生心憶仏念仏」というのは、もし衆生が心に仏を信じ念仏するならということであり、「現前当来必定見仏去仏不遠不仮方便自得心開」というのは、この世でも仏を見たてまつり、次の世でも必ず仏を見たてまつることができるということである。仏から遠ざかることもなく、他の手だてを用いることもなく、自然のはたらきにより心にさとりを得ることができるというのである。「如染香人身有香気」というのは、念仏の心を持っている人はかぐわしい香気を身にそなえた人のようであり、そのような勢至菩薩のお心をかぐわしい香気を身にそなえた人とたとえていうのである。だから「此則名曰香光荘厳」というのである。勢至菩薩がそのお心のうちに念仏の心を持っておられるのを、かぐわしい香気をそなえた人にたとえていうのである。このようなわけで勢至菩薩が「我本因地以念仏心入無生忍今於此界摂念仏人帰於浄土」とおっしゃっているのである。「我本因地」というのは、わたしがかつてさとりを求めていたときということである。「以念仏心」というのは、念仏の心によってということであり、「入無生忍」というのは、無生法忍の位に入ったというのである。「今於此界」というのは、今この娑婆世界でということである。「摂念仏人」というのは、念仏の人を摂め取ってということであり、「帰於浄土」というのは、念仏の人を摂め取って浄土に往生させようとおっしゃっているのである。

【5】龍樹菩薩御銘文

十住毘婆沙論曰 「人能念是仏 無量力功徳 即時入必定 是故我常念 若人願作仏 心念阿弥陀 応時為現身 是故我帰命(人よくこの仏の無量力功徳を念ずれば、即の時に必定に入る。このゆゑにわれつねに念じたてまつる。もし人仏にならんと願じて、心に阿弥陀を念じたてまつれば、時に応じてために身を現じたまはん。このゆゑにわれ帰命す)」

 「人能念是仏無量力功徳」というのは、人はよくこの仏のはかり知れない功徳を念じるがよいということである。「即時入必定」というのは、信心を得たまさにその時、必定に入るということである。必定に入るというのは、疑いなく念じると必ず正定聚の位に定まるということである。「是故我常念」というのは、わたしは常に念じるということである。「若人願作仏」というのは、人が仏になろうと願うのならということである。「心念阿弥陀」というのは、心に阿弥陀仏を念じるがよいということであり、念じると「応時為現身」であるといわれている。「往時」というのは、時に応じてということであり、「為現身」というのは、信心の人のために阿弥陀仏が現れてくださるということである。「是故我帰命」というのは、龍樹菩薩がつねに阿弥陀仏を信じておまかせするといわれているのである。

【6】婆藪般豆菩薩論曰「世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来 願生安楽国 我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応 観彼世界相 勝過三界道 究竟如虚空 広大無辺際(世尊、われ一心に尽十方の無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。われ修多羅真実功徳相によりて、願偈総持を説きて仏教と相応せり。かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし)」

 又曰「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」(仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ)」

 「婆藪般豆菩薩論曰」というのは、「婆藪般豆」とはインドの言葉であり、中国では天親菩薩という。また今は世親菩薩ともいう。旧訳では天親、新訳では世親菩薩というのである。「論曰」とは、世親菩薩が阿弥陀仏の本願のおこころを説き明されたものを「論」というのであり、「曰」とはその内容を表すという言葉である。この論を浄土論といい、また往生論ともいうのである。「世尊我一心」というのは、「世尊」とは釈尊であり、「我」というのは世親菩薩がご自身のことをおっしゃっているのである。「一心」というのは、釈尊の仰せに対して二心なく疑いがないということであり、すなわちこれは真実の信心である。「帰命尽十方無礙光如来」というのは、「帰命」とは「南無」であり、また「帰命」というのは阿弥陀仏の本願の仰せにしたがうという意味である。「尽十方無礙光如来」というのは、すなわち阿弥陀仏のことであり、この仏は光明そのものである。「尽十方」というのは、「尽」とは「つくす」といい、「ことごとく」ということであり、光明が余すところなくすべての世界に満ちわたっておられるのである。「無礙」というのは、さまたげられることがないというのである。さまたげられることがないというのは、衆生の煩悩や悪い行いにさまたげられることがないのである。「光如来」というのは、阿弥陀仏のことであり、この仏は不可思議光仏ともいう。この仏は智慧が光のすがたをとったものであり、その光が数限りないすべての世界に満ちておられることを知るがよいというのである。「願生安楽国」というのは、世親菩薩が、無礙光仏である阿弥陀仏の名号を称えて疑いなく信じ、安楽国に生れようと願っておられるのである。「我依修多羅真実功徳相」というのは、「我」は天親菩薩が「わたしは」と名乗っておられるお言葉である。「依」は「よる」ということであり、「修多羅」によるというのである。「修多羅」はインドの言葉であり、仏の説かれた教典をいうのである。仏教には大乗があり、また小乗があって、これらの経典をみな「修多羅」という。ここで「修多羅」というのは大乗のことであり、小乗のことではない。浄土の三部経は大乗の教典であり、この三部の大乗経典によるというのである。「真実功徳相」というのは、「真実功徳」とは本願に誓われた名号のことで、「相」とは「かたち」という言葉である。「説願偈総持」というのは、阿弥陀仏の本願のおこころをあらわす言葉を「偈」というのである。「総持」というのは智慧であり、さまたげられることのない光の智慧を「総持」というのである。「与仏教相応」というのは、この浄土論の内容が、釈尊の仰せと阿弥陀仏の本願に合致しているということである。「観彼世界相勝過三界道」というのは、天親菩薩が阿弥陀仏の浄土をご覧になって、その世界に果てのないことが大空のようであり、広大であることが大空のようであるとたとえたのである。「観仏本願力遇無空過者」というのは、阿弥陀仏の本願のはたらきをご覧になって、そのはたらきを信じる人は、いたずらにこの迷いの世界にとどまることがないといわれているのである。「能令速満足功徳大宝海」というのは、「能」は「よい」ということであり、「令」は「させる」ということであり、「速」は「すみやか」ということであり、はやいという意味である。本願のはたらきを信じる人には、阿弥陀仏が速やかにはやく功徳の大宝海を、その信じる人の身に欠けることなく満ちわたらせるのである。阿弥陀仏の功徳が、果てしなく広大で隔てのないことを、大海の水が隔てなく満ちみちているようであるとたとえているのである。

【7】斉朝曇鸞和尚真像銘文

 「釈曇鸞法師者 并州汶水県人也 魏末高斉之初 猶在 神智高遠 三国知聞 洞暁衆経 独出人外 梁国天子蕭王 恒向北 礼鸞菩薩 註解往生論 裁成両巻 事出釈迦才三巻浄土論也」

 曇鸞大師は、并州の文水県の人である。并州は州名であり、文水県は県名である。「魏末高斉之初猶在」について、「魏末」というのは中国の時代の名であり、「末」は「すえ」というのである。魏の時代の末ということである。「高斉之初」は斉という時代の初めということであり、「猶在」は魏から斉の時代までおいでになったということである。「神智高遠」というのは、曇鸞大師の智慧がすぐれておられたことをいうのである。「三国知聞」というのは、「三国」とは魏と斉と梁であり、この三国の時代においでになったというのである。「知聞」とは三国にその名が知れわたっていたということである。「洞暁衆経」というのは、あらゆる経典に精通しておられたというのである。「独出人外」というのは、人々に抜きんでておられたというのである。「梁国の天子」というのは、梁の王ということであり、蕭王のことである。「恒向北礼」というのは、梁の王がいつも、曇鸞大師がはるか北の方においでになるのを、菩薩と仰いで礼拝しておられたというのである。「註解往生論」というのは、天親菩薩の浄土論を詳しく解釈されて、往生論註という注釈書をお作りになったというのである。「裁成両巻」というのは、往生論註が二巻に分けて著されたということである。「釈迦才の三巻の浄土論」ということについて、「釈迦才」というのは、「釈」とは釈尊のお弟子ということを表す言葉である。「迦才」とは浄土の教えの祖師であり、智慧がすぐれておられた方である。その方が三巻の浄土論を表され、そこにこの曇鸞大師についてのお言葉が示されているというのである。

【8】唐朝光明寺善導和尚真像銘文

 智栄讃善導別徳云「善導阿弥陀仏化身 称仏六字 即嘆仏 即懴悔 即発願回向 一切善根 荘厳浄土」

 智栄という方は、中国の高僧である。善導大師のすぐれた徳をおほめになって、「善導は阿弥陀仏の化身である」といわれている。「称仏六字」というのは、南無阿弥陀仏の六字の名号を称えるということである。「即嘆仏」というのは、南無阿弥陀仏を称えることはそのまま阿弥陀仏をほめたてまつることになるというのである。また「即懴悔」というのは、南無阿弥陀仏を称えることは、そのままはかり知れない昔からの罪を懴悔することになるというのである。「即発願回向」というのは、南無阿弥陀仏を称えることは、そのまま安楽浄土に往生しようと思うことになるのであり、また、すべてのものに名号の功徳を与えることになるというのである。「一切善根荘厳浄土」というのは、阿弥陀の三字にすべての功徳をおさめておられるので、名号を称えることはそのまま浄土を荘厳することになると知るがよいというのである。このように智栄禅師は、善導大師をおほめになっているのである。

【9】善導和尚云 「言南無者 即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者 即是其行 以斯義故 必得往生(南無といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得)」

 「言南無者」というのは、すなわち帰命というお言葉である。「帰命」とは、釈尊と阿弥陀仏の二尊の仰せのままにその招きにしたがうという言葉である。このようなわけで「即是帰命」といわれている。「亦是発願回向之義」というのは、二尊の招きにしたがって安楽浄土に生れようと願う心であるといわれているのである。「言阿弥陀仏者」ということについて、これを「即是其行」であるといわれている。「即是其行」とは、これはすなわちすべてのものを救うために法蔵菩薩が選び取られた本願の行であると知るがよいというのであり、安養浄土に間違いなく往生することが定まる因であるという意味なのである。「以斯義故」というのは、間違いなく往生することが定まる因というこの意味によるからということである。「必」は「かならず」ということであり、「得」は「えさせる」ということであり、「往生」というのは浄土に生れるということである。「かならず」というのは、自然のはたらきで往生を得させるということである。「自然」というのは、行者がことさらに思いはからわないという意味である。

【10】又曰 「言摂生増上縁者 如無量寿経 四十八願中説 仏言若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字 下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚 此即是願往生行人 命欲終時 願力摂得往生 故名摂生増上縁(摂生増上縁といふは、無量寿経の四十八願のなかに説くがごとし。仏ののたまはく、もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生れずは、正覚を取らじと。これすなはちこれ往生を願ずる行人、命終らんとする時、願力摂して往生を得しむ。ゆゑに摂生増上縁と名づく)」

 「言摂生増上縁者」というのは、「摂生」とはすべての命あるものを救おうとお誓いになったお心のうちに摂め取ってくださるという意味である。「如無量寿経四十八願中説」というのは、阿弥陀仏の本願をお説きになった釈尊の教えであると知るがよいというのである。「若我成仏」というのは、法蔵菩薩がお誓いになって、わたしが仏になったならと説かれているのである。「十方衆生」というのは、あらゆる世界の命あるもののことであり、すなわちわたしたちのことである。「願生我国」というのは、安楽浄土に生れようと願えというのである。「称我名字」というのは、わたしが仏になったならわたしの名号がすべてのものに称えられるようにしようというのである。「下至十声」というのは、名号を称えることがたとえ十声のものでもというのである。「下至」というのは、十声より多く称えるものも、ただ名号を聞いて信じるものも、もらすことなく嫌うことなく往生させるということを表す言葉である。「乗我願力」というのは、「乗」は、「のるがよい」ということであり、また智という意味をもつ。「智」というのは、本願のはたらきに乗じさせてくださることを知るがよいというのであり、本願のはたらきに乗じて安楽浄土に生れることを知るのである。「若不生者不取正覚」というのは、誓願を信じた人が真実の浄土に生れないようなら仏にはならないとお誓いになった言葉である。「此即是願往生行人」というのは、往生しようと願う人はということである。「命欲終時」というのは、いのちが終ろうとする時ということである。「願力摂得往生」というのは、大いなる本願のはたらきが摂め取って往生させるという意味である。これは、すでに平生の時に真実の信心を得ている人のことであり、臨終の時にはじめて信心が定まって摂め取られるもののことではない。日頃から阿弥陀仏の光明のうちに摂め取られ護っていただいていることにより、金剛の信心を得た人は正定聚の位に定まっているのであり、臨終の時ではなく、すでに平生の時から阿弥陀仏が常に摂め護って、お捨てになることがないので「摂得往生」というのである。このようなわけで「摂生増上縁」と名づけるのである。また、平生の時に真実の信心を得ていない人の中には、日頃からの念仏の功徳によって、臨終の時にはじめて善知識に勧められ信心を得たその時、本願のはたらきに摂め取られて往生することができるものもいるだろうというのである。臨終の来迎を待ち望むものは、まだ信心を得ていないものであるから、臨終の時に往生ができるかどうかを気にかけて嘆くのである。

【11】又曰 「言護念増上縁者 但有専念 阿弥陀仏衆生 彼仏心光 常照是人 摂護不捨 総不論照摂 余雑業行者 此亦是 現生護念増上縁(護念増上縁といふは、乃至 ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、かの仏心の光、つねにこの人を照らして摂護して捨てたまはず。すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜず。これまたこれ現生護念増上縁なり)」

 「言護念増上縁者」というのは、真実の信心を得た人をこの世において常にお護りくださるという言葉である。「但有専念阿弥陀仏衆生」というのは、ひとすじに疑いなく阿弥陀仏を信じたてまつるということである。「彼仏心光常照是人」というのは、「彼」は「かの」ということであり、「仏心光」は無礙光仏のお心ということである。「常照」は、「つねにてらす」ということである。「つねに」というのは、どのような時も嫌うことなく、どのような日も避けることなく、どのような所も区別することなく、真実の信心を得ている人を常に照らしてくださるということである。「てらす」というのは、仏心のうちに摂め取ってくださるというのである。すなわち「仏心光」は、阿弥陀仏のお心のうちに摂め取ってくださると知らなければならない。「是人」とは、信心を得た人のことである。常にお護りくださるというのは、魔王などによって信心を破られることがなく、邪悪な鬼や神によって信心を乱されることがないということであり、これは阿弥陀仏が摂護不捨してくださるからである。「摂護不捨」というのは、摂め護ってお捨てになることがないというのである。「総不論照摂余雑業行者」というのは、「総」はすべてみなということである。本願を信じないでさまざまな行を修める人についてはすべてみな、照らして摂め護ってくださることはないというのである。照らして護ってくださることはないというのは、光明のうちに摂め取ってお捨てにならないという利益にあずかることがないというのである。その人は本願を信じる行者ではないからであると知らなければならない。だからここでは「摂護不捨」とはお述べにならないのである。「現生護念増上縁」というのは、この世において真実の信心を得ている人をお護りくださるというお言葉である。「増上縁」とは、浄土に往生させてさとりを開かせる強くすぐれたはたらきということである。

【12】皇太子聖徳御銘文

 御縁起曰 「百済国聖明王太子阿佐礼曰 敬礼救世 大慈観音菩薩 妙教流通 東方日本国 四十九歳 伝灯演説」

 「新羅国聖人日羅礼曰 敬礼救世 観音大菩薩 伝灯東方 粟散王」

 「御縁起曰」というのは、聖徳太子の伝記にはということである。「百済国」というのは、聖徳太子が前世にお生れになっていた国の名である。「聖明王」というのは、百済に聖徳太子がおいでになっていたときの、その国の王の名である。「太子阿佐礼曰」というのは、「阿佐」は聖明王の太子の名である。聖明王が亡き聖徳太子を恋い慕って悲しみ、そのお姿を救世観音像として金銅で鋳造していたのであるが、この日本に聖徳太子が生れ変っておいでになると聞いて、息子の阿佐太子を勅使としてその金銅の救世観音像をお贈りした。その時、阿佐太子が聖徳太子を礼拝して申しあげたのが「敬礼救世大慈観音菩薩」という言葉である。「妙教流通東方日本国」というのは、聖徳太子が仏法をこの日本に伝えひろめておられるというのである。「四十九歳」というのは、聖徳太子は四十九歳までこの日本におられるであろうと阿佐太子が申しあげたのである。贈られた金銅の救世観音像は、四天王寺の金堂に安置されている。「伝灯演説」というのは、「伝灯」とは仏法を灯火にたとえているのであり、「演説」とは聖徳太子が仏教を説きひろめてくださるに違いないと阿佐太子が申しあげたのである。

 また新羅から聖徳太子を恋い慕って日羅という聖人がやって来て、聖徳太子を礼拝して「敬礼救世観音大菩薩」と申しあげたのであり、これは聖徳太子は救世観音の化身でいらっしゃると礼拝したのである。「伝灯東方」というのは、仏法を灯火にたとえており、「東方」というのは、この日本に仏教の灯火を伝えておいでになると日羅が申しあげたのである。「粟散王」というのは、この日本はきわめて小さな国であるということで、「粟散」というのは粟粒を散らしたような小さな国に、聖徳太子が王となっておられると申しあげたのである。

尊号真像銘文 末

【13】首楞厳院源信和尚の銘文

 「我亦在彼 摂取之中 煩悩障眼 雖不能見 大悲無倦 常照我身(われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつるにあたはずといへども、大悲、倦きことなくして、つねにわが身を照らしたまふ)」

 「我亦在彼摂取之中」というのは、わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているといわれているのである。「煩悩障眼」というのは、わたしたちは煩悩によって眼をさえぎられているということである。「雖不能見」というのは、煩悩の眼では仏を見たてまつることはできないけれどもというのである。「大悲無倦」というのは、阿弥陀仏の大いなる慈悲のはたらきはわたしたちを見捨てることはないというのである。「常照我身」というのは、「常」は常にということであり、「照」はお照らしくださるということである。何ものにもさまたげられることのない光明は、信心の人を常にお照らしになるというのである。常に照らすというのは、常にお護りくださるということである。「我身」とは、わが身を、大いなる慈悲は見捨てることなく常にお護りくださると思えというのである。すべてのものを摂め取ってお捨てにならないという阿弥陀仏の慈悲のお心をあらわしておられるのであり、観無量寿経に説かれている「念仏衆生摂取不捨(念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)」の意味を源信和尚は説き明かしておいでになると知るがよいということである。

【14】日本源空聖人真影

 四明山 権律師 劉官讃 「普勧道俗 念弥陀仏 能念皆見 化仏菩薩 明知称名 往生要術 宜哉源空 慕道化物 信珠在心 心照迷境 疑雲永晴 仏光円頂 建暦壬申三月一日(あまねく道俗を勧めて弥陀仏を念ぜしめたまふ。よく念ずればみな化仏菩薩を見たてまつる。あきらかに知りぬ、称名は往生の要術なることを。宜きかな源空、道を慕ひ、物を化したまふ。信珠心にあれば、心迷境を照らし、疑雲永く晴れ、仏光頂に円かなり。建歴壬申三月一日)」

 「普勧道俗念弥陀仏」というのは、「普勧」とは「あまねくすすめる」というのである。「道俗」について、「道」と呼ばれる人に二通りがあり、「俗」と呼ばれる人に二通りがある。「道」の二通りとは、一つには出家した男、二つには出家した女である。「俗」の二通りとは、一つには在家信者の男であり、二つには在家信者の女である。「念弥陀仏」というのは、阿弥陀仏の名号を称えるというのである。「能念皆見化仏菩薩」というのは、「能念」とは名号を念じるということであり、念じるというのは深く信じることである。「皆見」というのは、化仏や菩薩を見ようと思う人はみな見たてまつるということである。「化仏菩薩」というのは、阿弥陀仏の化身である化仏・観音菩薩・勢至菩薩などの聖者がたである。「明知称名」というのは、明らかに知ったことは、阿弥陀仏の名号を称えると必ず「往生」するということを「要術」とするということであり、浄土往生にとって最も大切なことは阿弥陀仏の名号を称えることであり、これにまさるものはないというのである。「宜哉源空」というのは、「宜哉」とは「よい」ということであり、「源空」とは法然上人のお名前である。「慕道化物」というのは、「慕道」とはこの上ないさとりを願い求めるがよいというのである。「化物」というのは、「物」とはすべての命あるもののことであり、「化」とはあらゆるものを教え導くというのである。「信珠在心」というのは、金剛の信心をすばらしい宝玉にたとえておられる。信心の宝玉を心に得た人は迷いの暗闇にさまようことがないので、「心照迷境」というのである。つまり信心の宝玉によって迷いの暗闇を払い、明らかに照らすというのである。「疑雲永晴」ということについて、「疑雲」とは本願のはたらきを疑う心を雲にたとえたのであり、「永晴」というのは、疑う心の雲が永遠に晴らされるので必ず安楽浄土に往生するというのである。無礙光仏はすべてのものを摂め取って決してお捨てにならない光明によって、信心を得た人を常に照らしてお護りになるので、「仏光円頂」といわれている。「仏光円頂」というのは、無礙光仏がその慈悲の光明によって明らかに、信心のひとの頂を常にお照らしになるとほめたたえておられるのである。これは本願のはたらきによって摂め取っておられるからであると知らなければならない。

【15】比叡山延暦寺 宝幢院黒谷源空聖人真像

 選択本願念仏集云 「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本(南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とす)」

 又曰 「夫速欲離生死 二種勝法中 且閣聖道門 選入浄土門 欲入浄土門 正雑二行中 且抛諸雑行 選応帰正行 欲修於正行 正助二業中 猶傍於助業 選応専正定 正定之業者 即是称仏名 称名必得生 依仏本願故(それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで淨土門に入れ。淨土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正定に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなわちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに)」

 又曰 「当知生死之家 以疑為所止 涅槃之城 以信為能入(まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす)」

 選択本願念仏集というのは、法然上人が著された書物である。「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」というのは、安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。「正因」というのは、浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。

 また 「夫速欲離生死」というのは、速やかにはやく迷いの世界を離れたいと思えというのである。「二種勝法中且閣聖道門」ということについて、「二種勝法」とは、聖道門と浄土門という二つの法門である。「且閣聖道門」というのは、「且閣」とはまずさしおけということであり、聖道門をさしおくがよいというのである。「選入浄土門」というのは、「選入」とは選んで入れということであり、あらゆる教えの中から浄土門を選んで入らなければならないというのである。「欲入浄土門」というのは、浄土門に入ろうと思うならということである。「正雑二行中且抛諸雑行」というのは、正行と雑行の二つの中から、さまざまな雑行を捨ててさしおくがよいというのである。「選応帰正行」というのは、正行を選んでこれに依らなければならないというのである。「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」というのは、正行を修めようと思うなら、正定業と助業の二つの中から、助業をさしおくがよいというのである。「選応専正定」というのは、正定業を選んでひとすじに修めなければならない。「正定之業者即是称仏名」というのは、正定の因となる行いは、すなわち阿弥陀仏の名号を称えることであるというのである。正定の因というのは、必ずこの上ないさとりを開く因ということである。「称名必得生依仏本願故」というのは、名号を称えると間違いなく安楽浄土に往生することができるのであり、それは阿弥陀仏の本願のはたらきによるからであるというのである。

 また「当知生死之家」ということについて、「当知」とはよく知るがよいということであり、「生死之家」とは生れ変り死に変りし続ける迷いの世界のことをいうのである。「以疑為所止」というのは、大いなる本願の思いはかることのできないはたらきを疑う心によって、六道・四生・二十五有・十二類生という迷いの世界にとどまるというのであり、今に至るまでの長い間このような世界に迷い続けてきたと知るがよいというのである。「涅槃之城」というのは、安養浄土のことをいうのであり、これは涅槃の都ということである。「以信為能入」というのは、真実信心を得た人は阿弥陀仏の本願に誓われた真実の浄土に往生することができると知るがよいというお言葉である。信心はさとりを開く因であり、この上ない涅槃に至る因であると知るがよいというのである。

【16】法印聖覚和尚の銘文

 「夫根有利鈍者 教有漸頓 機有奢促者 行有難易 当知 聖道諸門 漸教也 又難行也 浄土一宗者 頓教也 又易行也 所謂真言止観之行 獼猴情難学 三論法相之教 牛羊眼易迷 然至我宗者 弥陀本願 定行因於十念 善導料簡 決器量於三心 雖非利智精進 専念実易勤 雖非多聞広学 信力何不備 然我大師聖人 為釈尊之使者 弘念仏一門 為善導之再誕 勧称名一行 専修専念之行 自此漸弘 無間無余之勤 在今始知 然則破戒罪根之輩 加肩入往生之道 下智浅才之類 振臂赴浄土之門 誠知無明長夜之大灯炬也 何悲智眼闇 生死大海之大船筏也 豈煩業障重(それ根に利鈍あれば、教に漸頓あり。機に奢促あれば、行に難易あり。まさに知るべし、聖道の諸門は漸教なり、また雑行なり。浄土の一宗は頓教なり、また易行なり。いはゆる真言・止観の行、獼猴の情学びがたく、三論・法相の教、牛・羊の眼迷ひやすし。しかるにわが宗に至りては、弥陀の本願、行因を十念に定め、善導の料簡、器量を三心に決す。利智精進にあらずといへども、専念まことに勤めやすし、多聞広学にあらずといへども、信力なんぞ備はらざらん。乃至しかるにわが大師聖人、釈尊の使者として念仏の一門を弘め、善導の再誕として称名の一行を勧めたまへり。専修専念の行、これよりやうやく弘まり、無間無余の勤め、いまにありてはじめて知りぬ。しかればすなはち、破戒罪根の輩、肩を加りて往生の道に入り、下智浅才の類、臂を振うて淨土の門に赴く。まことに知りぬ、無明長夜の大いなる灯炬なり、なんぞ智眼の闇きことを悲しまん。生死大海の大いなる船筏なり、あに業障の重きを煩はんや)」

 「夫根有利鈍者」というのは、衆生の資質に「利鈍」があるというのである。「利」というのは資質のすぐれた人のことであり、「鈍」というのは資質の劣った人のことである。「教有漸頓」というのは、衆生の資質に応じて釈尊の教えに「漸頓」があるというのである。「漸」とは、段階を経て少しずつ仏道を修め、はかり知れないほどの時間をかけて仏になるのであり、「頓」とは、この娑婆世界においてこの身のままで、速やかに仏になるというのである。これは、禅宗・真言宗・天台宗・華厳宗などの教えにしたがって速やかにさとりを開くことである。「機有奢促者」というのは、教えを受けるものには「奢促」があって、「奢」とは理解の遅いものがいることをいい、「促」とは理解の早いものがいることをいう。このようなわけで「行有難易」というのは、行に「難」があり「易」があるというのである。「難」とは聖道門の自力の行であり、「易」とは浄土門の他力の行である。「当知聖道諸門漸教也」というのは、聖道門は難行であり、また漸教であると知るがよいというのである。「浄土一宗者」というのは、浄土門は頓教であり、また易行であると知るがよいというのである。「所謂真言止観之行」というのは、「真言」とは真言宗の教えであり、「止観」とは天台宗の教えである。「獼猴情難学」というのは、この娑婆世界の人の心を猿の心にたとえているのである。猿の心のように、落ち着きがないというのである。それで、真言宗や天台宗の行は修めることも行じることも難しいというのである。「三論法相之教牛羊眼易迷」というのは、この娑婆世界で仏の教えを受けるものの眼を牛や羊の眼にたとえて、三論宗や法相宗などの聖道門の自力の教えには戸惑うであろうといわれているのである。「然至我宗者」ということについて、聖覚法印は、「浄土の教えでは、阿弥陀仏の本願に誓われた真実の浄土に往生する正因として、たとえ十声・一声でも念仏すれば必ずこの上ないさとりに至ると説かれている。善導大師の教えには、至誠心・深心・回向発願心の三心をそなえれば、必ず安楽浄土に往生するといわれている」と述べられているのである。「雖非利智精進」というのは、智慧もなく、仏道に励むこともなく、資質が劣っていてただ怠けおこたるばかりのものであっても、本願の名号をひとすじに称えることに疑いのない信心を得ると必ず往生すると心得るがよいというのである。「然我大師聖人」というのは、聖覚法印が源空上人を「わが大師聖人」と仰いでおられるお言葉である。「為釈尊之使者弘念仏一門」というのは、源空上人は釈尊の使者として念仏の教えをひろめてくださったと知るがよいというのである。「為善導之再誕勧称名一行」というのは、源空上人は善導大師の生れ変りとして念仏の一行を勧めてくださったと知るがよいというのである。「専修専念之行自此漸弘無間無余之勤」というのは、本願の名号をただひとすじに称えるという教えは、ここからひろまったと知るがよいというのである。「然則破戒罪根之輩加肩入往生之道」というのは、「然則」とはそのようにあらしめるはたらきのことであり、この浄土にそなわるはたらきによって、戒律を破る人やたもつべき戒律のない人や罪深いものも、みな往生すると知るがよいというのである。「下智浅才之類振臂赴浄土之門」というのは、智慧や才能のないものは浄土門に帰依するがよいというのである。「誠知無明長夜之大灯炬也何悲智眼闇」というのは、「誠知」とは、本当に知ることができたということである。阿弥陀仏の誓願は無明煩悩の暗く長い夜を照らす大きな灯火なのであり、智慧の眼が暗く閉ざされているなどと悲しむことは少しもないと思えというのである。「生死大海之大船筏也豈煩業障重」というのは、阿弥陀仏の本願のはたらきは迷いの大海を渡す大きな船・筏なのであり、きわめて深く重い罪悪をそなえた身であると嘆くことはないといわれているのである。「倩思教授恩徳実等弥陀悲願者」というのは、師の教えを考えてみると、それは阿弥陀仏の本願に等しいというのであり、源空上人が教えてくださったことへの恩が重く深いことをよく心得るがよいというのである。「粉骨可報之摧身可謝之(骨を粉にしてこれを報ずべし、身を摧きてこれを謝すべし)」というのは、源空上人が教えてくださったことの恩徳が重いことを心得て、骨を粉にしてでも身を砕いてでもその恩徳に報いなければならないというのである。聖覚法印のこの言葉を十分にご覧になって心得なければならない。

【17】和朝愚禿釈親鸞「正信偈」文

 「本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就 如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言 能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味 摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 獲信見敬得大慶 即横超截五悪趣(本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。等覚を成り大涅槃を証することは、必死滅度の願成就なり。如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり。五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし。摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。信を獲て見て敬ひ大慶を得れば、すなはち横に五悪趣を超截す)」

 「本願名号正定業」というのは、阿弥陀仏が本願に選び取られた往生浄土の行のことをいうのである。「至心信楽願為因」というのは、阿弥陀仏が与えてくださる真実の信心のことであり、この信心をこの上ないさとりの因としなければならないというのである。「成等覚証大涅槃」ということについて、「成等覚」というのは、正定聚の位につくことである。この位を龍樹菩薩は「即時入必定(即の時に必定に入る)」といわれており、曇鸞大師は「入正定之数(正定の数に入る)」と示されている。これはすなわち弥勒菩薩と等しい位である。「証大涅槃」というのは、必至滅度の願のはたらきにより必ず大いなる涅槃のさとりを開くのであると知るがよい。「滅度」というのは、大いなる涅槃のさとりのことである。「如来所以興出世」というのは、さまざまな仏がたが世にお出ましになるわけはという言葉である。「唯説弥陀本願海」というのは、仏がたが世にお出ましになる本意は、ただひとえにすべてのものにさとりを開かせる阿弥陀仏の本願の教えを説くことにあるというのである。そのようなわけで無量寿経には「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利(如来、世に興出したまふゆゑは群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり)」と説かれている。「如来所以興出於世」について、「如来」というのはさまざまな仏がたということであり、「所以」というのはわけというお言葉であり、「興出於世」というのは仏が世にお出ましになるというお言葉である。「欲拯群萌」について、「欲」というのはお思いになるということであり、「拯」とは救おうということであり、「群萌」とはすべての命あるものということで、それらのものを救おうとお思いになるというのである。仏が世にお出ましになるわけは、阿弥陀仏の誓願を説いてすべての命あるものを助け救おうとお思いになるからであると知るがよい。「五濁悪時群生海応信如来如実言」というのは、さまざまな濁りと悪に満ちた世界のあらゆるものは、釈尊のお言葉を疑いなく信じるがよいというのである。「能発一念喜愛心」というのは、「能」「よく」ということであり、「発」は「おこす」ということであり、「ひらく」ということである。「一念喜愛心」とは、そのとき慶喜をともなった真実の信心が開けおこり、本願に誓われた真実の浄土に必ず往生すると知るがよい。「慶喜」というのは、信心をすでに得てよろこぶ心をいうのである。「不断煩悩得涅槃」というのは、「不断煩悩」とは煩悩を断ち切らないままということであり、「得涅槃」というのはこの上ない大いなる涅槃のさとりを開くことができると知るがよい。「凡聖逆謗斉廻入」というのは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・一闡提などのさまざまなものが、自力の心をあらためて真実信心の海に入れば、みな等しく救われることを、どの川の水も海に入ると一つの味になるようなものであるとたとえているのである。このことを「如衆水入海一味」というのである。「摂取心光常照護」というのは、信心を得た人を、無礙光仏の光明は常に照らしてお護りになるので、迷いの暗闇が晴れ、生れ変り死に変りし続けてきたその長い夜がすでに明け方になっていると知るがよいというのである。「已能雖破無明闇」というのはこの意味である。信心を得るということは、明け方を迎えるようなものであると知るがよい。「貪愛瞋憎之雲霧常覆真実信心天」というのは、わたしどもの貪りや怒りを雲や霧にたとえて、それらがいつも信心の空をおおっているのであると知るがよい。「譬如日月覆雲霧雲霧之下明無闇」というのは、太陽や月が雲や霧におおわれていても、闇は晴れて雲や霧の下が明るいように、貪りや怒りの雲や霧に信心がおおわれていても、往生のさまたげになることはないと知るがよいというのである。「獲信見敬得大慶」というのは、この信心を得て大いによろこび敬う人というのである。「大慶」とは、得なければならないことをすでに得て大いによろこぶというのである。「即横超截五悪趣」というのは、信心を得るとただちによこざまに迷いの世界のきずなが断ち切られると知るがよいというのである。「即横超」というのは、「即」は「すなわち」ということであり、信心を得る人は時を経ることも日を置くこともなく正定聚の位に定まるのを「即」というのである。「横」は「よこざまに」ということであり、それは阿弥陀仏の本願のはたらきであり、他力のことをいうのである。「超」は「こえて」ということであり、他力により迷いの大海を容易に超えて、この上ない大いなる涅槃のさとりを開くのである。つまり他力の信心が往生浄土の教えの根本であると知らなければならない。この意味において、「他力においては義のないことをもって根本の法義とする」と、源空上人が仰せになっているのである。「義」というのは、行者がそれぞれに思いはからう心である。このようなわけで、それぞれに思いはからう心を持っているあり方を自力というのである。この自力のあり方には十分に気をつけなければならないというのである。

正嘉二年六月二十八日、これを書く。

愚禿親鸞八十六歳

義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば、義といふなり。

義と申すことは、自力のひとのはからひを申すなり。

行者のはからひのなきゆゑに、義なきを義とすと、他力をば申すなり。

他力と申すは、仏智不思議にて候ふなるときに…仏と仏のみ御はからひなり。さらに行者のはからひにあらず候ふ。

他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり…如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり。凡夫のはからひにあらず。